町田が部屋に行くと、ベットの上で相原は泣き崩れ裕美がそれを見守っていた。
「町田さん、あのニュースは本当なんですか」
 と、裕美が尋ねた。


「ああ。本当らしい」
「どうして」
 裕美は力なくその場に座り込んだ。


 暫くして橋本が現れた。相原は彼に気付くと毅然として立ち上がり彼を睨んだ。そして右手を振りかざし彼の頬を強く打った。
「馬鹿。・・馬鹿よ・・」
 そう言って彼女は橋本の胸で泣いた。
 

 矢部は町田達の部屋に移って橋本と相原のために部屋を開けた。二人はソファーに腰を下ろし、並んで座ったまま決して向かい合おうとはしなかった。
「私達は出会わなかった方が幸せだったのかも知れないわね」
「俺は後悔していませんよ」
「私も後悔はしていない。だけど私の所為であなたの人生は台無しになってしまった」
「誰の所為でもないですよ。俺自身の問題なんです」
 彼がそう答えると、暫く沈黙が続いた。
「あなたが私に抱いていた理想は、私の真実の姿と懸け離れたものだった。段々とそれが露になって行って、私はそれを壊さまいとしたけれど、正直に言えば私には重荷だった」
 彼女はそう打ち明けた。


「俺にはあなたが完全な女性に思えた。俺は自分勝手にあなたの輝いている面だけが、あなたの全てであると思い込んでいた。だから一つの嘘を知った時に、あなたの全てが嘘に思えた」
 と、彼は静かに話した。


「初めは、小さな綻びだったわね」
 と、彼女が言った。


「俺はその綻びに触れてはいけないと知っていながら、無視できずに自分で広げてしまった。そして自分の馬鹿さ加減に気が付いた時にはもう手遅れだった」
 と、彼が応えた。


「こうしていると、あなたが私の部屋に初めて来た時の事を思い出すわ。あれは去年の五月の雨の降る夜だったわね。ドアを開けるとびしょ濡れになったあなたが立っていて、今の俺は部下でも弟でもないんだって私に言った。私は怒ってあなたの頬を叩いたけれど、本当はとても嬉しかった。あの夜も、二人でソファーに並んで座りながら、いつまでも話しを続けたわね。それから二人の思い出が重なって行った。八月には歯ブラシが並んで、同僚に見付からないように二人でこっそり出勤した事もあったわね。あの頃が私には一番幸せだった。だけど、長くは続かなかった」
 彼女は床を見詰め、ゆっくりと語った。


「初めて喧嘩したのは九月でしたね。その頃から俺はあなたの気持ちが分からなくなってしまった。俺の知らないあなたの顔がある事を知り、知らない所で俺を笑っているような気がしていた」
「そんな事はなかったのよ」
「でもあなたは、俺に隠し事をしていた」
「そう。どうしても言えなかった。・・私はあなたと付き合う前から支店長と深い関係だった。私は彼の地位と影響力を利用して課長にまでなり、その代償として不正融資を見逃し、自分の身体を彼に与えた。そしてこの事を隠して置けなくて、私はあなたに話してしまった」
「それを聞いた時は流石にショックだった」
「それが切っ掛けで、あなたは不正融資の事をマスコミに流した」
「そうです。そうすれば俺は、あなたから支店長の影を消し去る事ができると思ったんです。だけど、あなたは罪を押し付けられ、それでも支店長を庇って、彼の事を警察に話さなかった」
 彼は彼女を問い詰めた。


「仕方がなかったのよ」
 彼女は静かに答えた。


「何が仕方ないんです。それに俺はあなたと支店長の関係は前から知っていましたよ」
 彼は声を荒げた。


「えっ、どうして」
「支店長が俺に話したんですよ。あなたから誘惑されて関係を持ち、今でも自分を利用するためにあなたが誘惑をして来ると。そして所詮はお前も遊ばれているに過ぎない、将来の事を考えてやるから別れろと」
「そんな事は嘘よ」
「俺はあなたの濡場を撮った写真まで見せられたんですよ」
 彼の声は遣り場のない怒りで震えていた。
「それが彼の手口なのよ。あなたと付き合い出してから、私はどんなに脅されても彼の誘いを断わり続けたわ」
 と、彼女は弁解した。


「それが、それが本当だとしても、その時の俺には、写真に写っている事実が問題だったんですよ。それも嘘なんですか」
 彼の怒りに、彼女は彼の目を見詰めたまま何も答えられなかった。


「俺は悩み抜いた末に、遊びの相手でも騙され続けても構わないと思った。だけどその過程で俺は、苦しみから逃れようとして誘惑に負けてしまった」
 と、彼は静かに話した。


「知っているわ」
 と、彼女は小さな声で言った。


「知っているって」
 と、彼が尋ねた。


「あなたは悩み続け、誘惑に乗って麻薬に手を出してしまった」
 と、彼女が答えた。


「どうしてその事を。もしかしたら・・」
「そう。それにあなたが誘惑されたのも裏で彼が操っていたのよ。私が警察で彼の事を話せば、今度はあなたを巻き込んでしまった。だから言えなかった。そして、それも彼の計算の内だったのよ」
「それなら俺を庇って・・・」
 彼は力強く彼女を抱き寄せた。それから二人は激しく抱き合い、疑いの晴れた真実の愛を確かめ合った。
 
 部屋の明かりは落され、重い空気が漂う中で古淵の寝息が聞こえている。


「町田、起きているか」
 と、矢部の声がした。彼はソファーの上で横になっていた。


「ああ。お前も眠れないのか」
 町田はベットの上から応えた。


「古淵は寝たらしいな」
「ああ。どんな状況でも寝れるのはあいつの才能だからな」
 と、町田が答えた。


「俺は橋本の事でまだお前に隠している事があるんだ」
「なんだよ。もう何があっても驚かないぞ」
「実はあいつ、コカインを吸っていたんだ」
「コカインだって、お前なんでそんな事を」
「あいつの部屋に遊びに行った時、偶然コカインの入った容器を見てしまったんだ。昼間見たニトログリセリンの入っていたケースのもう一つの瓶は、実はコカインだよ」
「お前、それを知っていながらどうして止めなかったんだ」
 町田は起き上がった。


「止めたよ。止めない訳ないだろ!」
 矢部も起き上がって反論した。


「まさか、矢部、お前まで!!」
「馬鹿野郎。俺が麻薬なんてするかよ!」
「だったら、どうしてスキー場にコカインなんかを持ち込ませるんだ」
「あいつは一度止めたんだ。だから、お前と古淵が部屋に来る前に俺はその事を問い詰めたよ。そうしたら、あいつは持ち歩いているだけで吸ってないって言ったよ。お守りの代わりだってさ」
 と、矢部が話した。


「コカインがお守りだって。どうしてコカインなんかを」
 と、町田が尋ねた。


「相原さんは支店長の女だったんだ。それを知ってた時にショックを受けてあいつは麻薬に手を出してしまったんだ」
 と、矢部は答えた。


「じゃあ殺人も麻薬の所為なのか」
「それは違うと思うよ。俺は持ち歩いているだけで吸ってないって言うあいつの言葉を信じるよ。だから余計に精神的な逃げ場がなくて心臓を壊してしまったんだ」
 と、矢部が話した。


「それなら逆に麻薬を続けていればこんな事にはならなかったって言うのか」
 町田はそう尋ねた。


「そうかも知れない」
 と、矢部が答えた。


「そんな事ってあるのかよ」
 と、町田は嘆いた。


「これも現実なんだよ」
 と、矢部が言った。


「結局、俺達の関係ってなんだったのかな」
 暗がりの中で町田が小さく呟いた。


「親友だろ。違うか」
 と、矢部が応えた。


「親友って、こんなに無力なのか。俺はお前と違って、あいつの相談にさえ乗る事ができなかった。お前が今まで隠していた気持ちも分からないではないけど、俺は橋本の苦しみも知らずに呑気にスキーをしていた自分が情けないよ。親友と言っても結局は上辺だけの付き合いだったんだな」
 町田の声が寂しく響いた。


「俺達が上辺だけの付き合いなんて、そんなに悲しい事を言うなよ。誰にも言えない事の一つや二つ、お前にだってあるだろ。俺達は独立した存在だし自立した道を歩んでいるんだ。だから全てを共有する事なんてできないし、お互いに知らない事の方が多いんだ。だけど、その上でお互いに心を許し合えるのが親友であり、俺達だったんだよ」
 矢部がそう話した。

 

 町田は学生時代を思い返した。良い思い出も悪い思い出もあった。今ではそれら全てが楽しくも懐かしくもある彼の掛け替えのない財産となっていた。彼は卒業してからの年月を数えた。橋本や矢部との付き合いは卒業してからの方が長くなっている。毎日のように行動を共にしていた学生時代と違い、今では年に数回しか会っていないが思い出でも懐かしい存在でもなかった。彼等といると会っていない一年を昨日の事のように感じる事ができた。
 町田の耳に隣のベットから鼻を啜る音が聞こえて来た。


「古淵、お前も起きているのか」
 と、町田が尋ねた。


「ああ。そんなに大きい声で話してて、眠れる訳がないだろ」
 と、古淵が答えた。


「そうだな」
 と、矢部が言った。


「俺達はこれからもずっと親友だよな」
 と、古淵が尋ねた。


「当たり前だろ」
 と、矢部が答えた。


「俺達は授業の後みたいにあいつと別れるんだ。あいつは暫く授業を休むだけで、俺達が待っていればいつか必ず授業が始まる時みたいにあいつは戻って来るんだ」
 と、町田が言った。


 外では雪が深々と降り続いていた。
 
 翌朝、雪は上がり曇り空が広がっていた。ペンションの前に警察の車が止まった。警官と刑事らしき人物が車から降りてペンションのドアを叩いた。
 部屋の中はカーテン越しに薄らと明るくなっている。ドアを叩く音がした。それは鈍い音で繰り返し続いた。


 ドアが開き、町田が姿を見せた。部屋の外では二人の刑事と警官が一人立っていた。年輩な方の刑事が手帳を見せ、町田に用件を話した。彼等は橋本を探していた。

「この部屋に橋本はいるのか」
 若い刑事は強引に部屋の中に入った。


「この部屋にはいませんよ」
 と、町田が答えた。


 部屋の中の騒がしさに矢部と古淵も漸く起き上がった。


「一体どうしたんだ」
 と、矢部が町田に尋ねた。


「警察が来たんだ」
 と、町田が答えた。


「お前達で匿っているんじゃないだろうな」
 若い刑事は部屋の中を漁っている。


「橋本が指名手配された事は昨夜のニュースで知っています。橋本は自首するつもりでいたんです」
 と、町田が答えた。

 

 町田は刑事を橋本の部屋に案内した。しかし町田がドアをノックをしてもなんの応答もなかった。そしてノブを回すと鍵が掛かっていなかった。刑事は慌てて部屋の中に入った。部屋の中は綺麗に整理されていて橋本の姿も相原の姿もなかった。
「逃げられたか」
 と、若い刑事が言った。


「橋本は逃げるような奴じゃない」
 と、町田が反論した。


 矢部がテーブルの上に橋本の筆跡らしいメモを見つけ、その場に膝を落した。年輩な刑事はそれを取り上げて読み上げた。
「ごめんなさい。ありがとう。さようなら」
 それが橋本の残した伝言だった。


 矢部は泣き叫びながら床を叩いた。
「応援を手配してこの近辺を大至急捜査しましょう。昨夜のあの大雪ですから、まだ遠くには逃げていない筈です」
 若い刑事が慌てたように言った。


「そんなに急ぐ必要はもうないよ」
 年輩な刑事は宥めるように彼の肩を軽く叩いた。
 
 昨夜の雪でペンションの外は白一色の世界になっていた。その雪の絨毯の上に二つの足跡が残っている。それはまるで彼等の生きていた軌跡であるかのようで、しっかりと和田野の森教会の前まで続いていた。
 足跡は教会の入り口で一つになり、少し離れた場所で終わっていた。其処には抱き合ったままの橋本と相原が雪のベールを優しく掛けられて倒れていた。
 町田達は声も出ず、教会の前で立ち尽くしていた。刑事達は二人に近付いた。
「心中か」
 と、若い刑事は無感動に呟いた。


 年輩の刑事は腰を落し、相原の顔の雪を払おうと掌を頬に当てた。
「救急車だ」
 と、彼が叫んだ。
 
 数年が過ぎてまた冬となった。暫く暖冬が続いていたが、その年は何年か振りに寒さの厳しい冬だった。白馬は雪に恵まれていた。澄み切った空の下、ゲレンデを颯爽と滑るスキーヤーの姿があった。先頭を行く一人が粉雪を舞い上げて止まり、男女二人のスキーヤーが後に続いた。一人がグローブを外して腕時計に目を向けた。それは町田だった。そして他の二人は古淵と大口だった。
「そろそろ時間だな。このまま上がろうか」
 と、町田が言った。


「それがいいわね。由美さんも待ちくたびれているだろうし」
 と、彼女は応えた。


 彼等が緩やかなゲレンデまで降りて来ると其処には小さな子供にスキーを教える矢部の姿があった。


「矢部、そろそろ時間だぞ」
 町田が大きな声を掛けると矢部は笑いながら手を振って応えた。
 
 小さな教会の中に正装をした町田達の姿があった。古淵の横には婚約者の大口がいて、その隣には男の子を挟んで矢部と赤ん坊を抱えた裕美がいた。そして町田の横にはお腹の大きな由美がいた。


 あの夜に心中を計った二人は奇跡的に命を取り留め、そして橋本は死体遺棄と麻薬所持法違反で逮捕された。それからの町田達は相原を励まし支え合って橋本の欠けた分だけ結束を固めた。そして彼等は橋本の帰りを待ちながら冬になると必ず集まってスキーを楽しんだ。その中で矢部は裕美と結婚して二児の父親となり、町田は由美と古淵は大口と結ばれた。そして今日、彼等の中の四番目のカップルが結ばれようとしていた。

 

 厳粛な音楽が鳴り出し、新郎新婦が入場して来た。新郎は随分緊張しているようで足元が覚束ず、新婦の頬は嬉しさで既に濡れていた。それは橋本と相原だった。
 二人は神父に問われて誓いの言葉を述べるとお互いに指輪を交換した。
「雪深き森で生まれ変わりし二人は神の御前で永遠の愛を誓いました。この二人がいつまでも温かな家族と深い絆で結ばれた優しい友に恵まれ、共に神の御加護がある事を祈ります。アーメン」


 神父の声が教会の中に響き渡った。二人は抱き合って口付けを交わし、仲間達は祝福の拍手を二人に送った。

 

おわり
 

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