「いいえ、友達と来ていたんですけど、大斜面ではぐれちゃって」
「そうか、あの混雑だからな。でも、待ち合わせをしなかったの」
「待ち合わせ場所で十五分以上は待っていたんですけど、誰も来なかったんです。それにはぐれたら五時にホテルのフロント前に集合する事になっていたから」
と、彼女が答えた。彼は腕時計に目を向けた。時間は二時を少し回っている所だった。
「まだ、三時間近くあるね」
彼に言われて、彼女も時間を確かめた。
「本当ですね。もっと時間が経っているのかと思った。町田さんはどうするんですか」
「俺はサングラスとストックを新調して、また滑りに行くよ」
彼がそう答えると、彼女は少し驚いた様子だった。
「私だったら、こんな目に遭ったらスキーが嫌いになってしまうだろうな。町田さんって本当にスキーが好きなんですね」
「ああ。でも、もう好きと言うより中毒かも知れない」
「いいですね、打ち込める物があって」
彼女は羨望の目で彼を見詰めた。
「だけど回りには余り歓迎をされないよ。親とか会社の同僚には結構迷惑を掛けてるからね。成瀬さんはどうなの」
彼は尋ね返した。
「私も学生の頃はスキーサークルに入って夢中で滑っていたんです。でも今は年に何回か遊びで滑るだけで、もう全然だめです。私も中毒になるほど上手く滑れたらいいのにな」
彼女は溜息を吐いた。
「良かったら五時まで教えてあげようか」
彼は軽い調子で誘った。
「本当ですか」
と、彼女は笑顔で応えた。
「ああ。次の犠牲者を出さないように」
彼はそう言って笑った。
ホテル内のスポーツショップで、町田がサングラスとストックを買っている。由美は怪獣の帽子を被り、彼の前で楽しそうに戯けて見せた。二人はすっかり打ち解けていた。
二人がクワッドリフトから降りて来る。由美はビビット色のジャケットに白のスキーパンツを着こなし、町田はプリント柄のジャケットに蛍光色のデモパンで決めていた。二人はブーツのバックルを締め、軽くストレッチをしてコースに出た。
「じゃあ、先にパラレルで四ターンするから、合図したら同じように滑って来てよ」
町田はそう言うと滑り出した。彼はキレのある深回りのターンを四回繰り返し、粉雪を舞上げて急停止すると、向き直ってストックを振り上げた。
彼女は深呼吸をした後、ストックを握り直してスタートした。彼女は町田が描いたシュプールを辿るように滑った。ズレの多いターンだったが、安定した滑りだった。彼女は大きくブレーキを掛け、彼の手前で停止した。
「上手いよ。思ったより滑れるんだね」
彼がそう声を掛けた。
「そうですか。でも、こんなに緊張して滑ったの、本当に久し振り」
彼女は息を弾ませていた。
「上体のバランスがいいね。だけどターンの後半がズレてるから、もっとエッジを立てた方がいいよ。力任せに荷重するより、太股を内側に絞り込むようにすればシャープなターンができるんだ」
と言って、彼は手本を見せた。
「こうですか」
彼女が真似をした。
「そんな感じだね。じゃあ、それを意識してもう一度は滑ろう」
彼はそう言って颯爽と滑って行った。彼女は彼の後ろ姿を見詰めていた。
コブ斜面を由美が懸命に滑っている。町田は下から大声でアドバイスを送った。彼女は途中で止まる事なく、コブをゆっくりと確実に吸収して彼の元まで降りて来た。
「七十点、合格」
彼はグローブ越しに拍手をした。
「ありがとうございます」
彼女はそう言って御辞儀をした。
「短時間でこれだけ上達するなんて、凄い素質だよ」
「町田さんって、指導も上手いけど、お世辞も上手いんですね」
彼女が笑顔で応えた。
「俺はお世辞が言えるほど器用じゃないよ」
町田はそう言うと、グローブを外して腕時計を見た。時間は五時十五分前だった。
「そろそろ五時になるね。最後に下まで揃って滑ろうか」
「はい。分かりました」
「じゃあ、余り飛ばさないで滑るから後を付いて来て」
そう言って町田が滑り出した。由美は彼の直ぐ後を同じフォームで滑って行く。ホテル前のゲレンデはナイターの明かりが灯り始めていた。二人は軽快なターンで流れるような軌跡を緩斜面に刻んだ。
二人はリフト乗り場付近で停止した。町田がホテルの上部にある壁時計を見上げた。
「時間だね」
彼がそう言った。
「町田さんはどうするんですか」
彼女は名残り惜しそうだった。
「俺はもう少し滑るよ」
と、彼が答えた時、彼女を呼ぶ声がした。
彼女が振り向くと、一人の女性がぎこちない滑りで近付いて来ていた。
「由美ったら、途中でいなくなっちゃうんだから。何処を滑っていたのよ」
「智美・・」
「他の皆は、私を置いてもうフロントに行ってるよ。早く一緒に行こう」
「じゃあ、俺は行くよ。保険の事で何かあったら連絡してよ」
そう言って、彼は動き出そうとした。
「町田さん、今日は色々面倒をお掛けして、どうも済みませんでした」
と、由美が言った。
「気にするなよ。今日はいい思い出になったよ。じゃあね」
彼は軽く左手を上げてそう応えると、彼女に言葉を続ける暇も与えずスケーティングでリフトの方に向かって行った。
「誰なの、あの人」
由美の隣の女性が怪訝そうに尋ねた。
「私が撥ねたスキー中毒」
と、彼女が答えた。
ホテル本館のファミリールームだった。スキーを終えた町田がドアを開けて入って来る。
彼は片手でクロークを開けると、脇に挾んでいたスキージャケットとグローブをハンガーに掛けた。部屋の奥では矢部がソファーに座って電話を掛けている。そして古淵はその横に転がっていた。
「お疲れ。やっぱり、あれから滑りに行ったんだ」
古淵が起き上がってそう言った。
「ああ。それに五時までは彼女と一緒に滑っていたんだ」
町田がウェアを脱ぎながら答えた。
「えっ、一緒に滑っていたの」
古淵は驚いていた。
「ああ。友達とはぐれたって言うから、待ち合せの時間までスキーを教えていたんだ。彼女、結構筋が良かったよ」
町田はそう話すとベットの上に投げ捨ててあったジーパンを手に取った。
「それでどうしたの」
「別に」
町田はジーパンに足を通して素っ気なく答えた。
「なんだ。相変わらずだな」
古淵は呆れて再び横になった。町田は真剣に電話をしている矢部を気にした。
「何処に電話してるの」
町田が尋ねた。
「橋本の自宅だよ。でも、まだ帰って来てないみたいなんだ」
古淵が横になったまま答えた。
「帰って来たって」
矢部が受話器を離してそう言った。古淵が起き上がり、町田は静かに向かいのソファーに腰を降ろした。
「もしもし。橋本。矢部だけど、今日の検査はどうだった」
矢部が橋本と話し出した。橋本は今日の検査でも身体的には特に異常が認められず、精神科医の診察を受けるように勧められたようだった。矢部はスキーをしないまでも気分転換に明日から来るよう橋本を誘った。町田と古淵も電話を替わって励まし、彼は渋々承知した。
「だけど、急にどうしたの」
と、町田が尋ねた。
「橋本がホテルの予約をしてたから、聞きたい事があって電話をしたんだ。そうしたらお母さんが出て、あいつの事を凄く心配をしているんだ。先週なんて車で出掛けて二日も家に帰らない日があったみたいだし、それから塞ぎ込んでばかりで全然元気がないみたいなんだ。それでスキーなら行くかも知れないから気分転換に誘ってくれって頼まれたんだ」
と、矢部が答えた。
「余程の嫌な事があったんだろうな。俺は橋本が精神的にやられるなんて未だに信じられないよ。あいつが直接関係していたとは思えないけど、事件になった不正融資が関係してるのかな」
と、町田が言った。
「あいつが関与していたとは思えないけど、何らかの関係はあるだろうな」
「会社が嫌なら、とっとと辞めちゃえばいいのに。俺なんか、もう二回も転職してるぜ」
と、古淵が口を挾んだ。
「お前と違って、そんなに簡単に辞められないじゃないか。親の期待とか、親戚への体裁とか、あいつ自身の意地もあるだろうしな」
と、矢部が続けて言った。
「明日は、仕事の話は一切なしにしよう」
と、町田が提案した。
「そうだな。そうしよう」
と、矢部が同意した。
「じゃあ、飯を食べに行こうか」
そう言って矢部が立ち上がり、他の二人も腰を上げた。
「ナイターはどうする」
と、町田が言った。
「当然行くよ。それに明日は橋本と一緒だから大して滑れないだろうし」
と、矢部が応えた。
「でも、橋本は雪の上だと人が変わるから、ストレスが溜ってる分だけ爆発して、俺達より全然速いかも知れないぜ」
と、古淵が言った。
「それは十分に有り得るな」
と、矢部が笑って言った。彼等は笑い声を残して部屋を後にした。
男女入り混じった明るい声が部屋の中に響いている。テーブルやソファーを端に寄せ、彼等は絨毯の上でトランプをしていた。その中に由美もいた。彼等は由美の衝突した相手について噂をしていた。
「何か由美はその人の事を随分気に入ったみたいだね。智美もその人を見たんでしょ。どんな感じだったの」
長い髪を掻き分けている女性が少し鈍そうな女性にそう尋ねた。
「背が高くて、顔は・・、サングラスをしていたからよく分からないけど、結構良い男に見えたけどな」
と、智美が答えた。
「僕はやっぱり女連れだと思うな。苗場に男同士で来る訳ないじゃん。仮にそうだとしてもそんなチャンスに、じゃあね、なんて言わないよ」
一人の男がそう言ってカードを出した。
「そうかな」
と、由美が呟いた。
「由美ちゃんは、僕達じゃ不足なの」
別の男がそう尋ねた。彼女は答えに困っていた。
「当たり前でしょ。あなた達は口だけで、全然滑れないじゃない。もう少し上手くなってから誘ってよね。はい、これで上がり」
髪の長い女性がそう言って最後のカードを出した。
「洋子ちゃんは厳しいな」
「本当だよ。上手い下手より、スキーなんて楽しければいいじゃん」
「そうそう。スキーなんてアフタースキーのおまけだよ。向きになったって仕方ないよ」
男達がそう話した。
「そう言う事は勝ってから言いなさい。さっきから一回も勝ってないじゃないの」
洋子はそう言いながら紙の切れ端に点数を付けた。
智美がカードを集めている。由美は立ち上がり、窓に近付いてナイターゲレンデを眺めた。カクテル光線に照らされたゲレンデには昼間と違った賑やかさがあった。彼女は何かを探していた。そしてそれが見つかったらしく彼女は微笑んだ。窓の下にはクワッドリフトに乗り込もうとする包帯をした町田の姿があった。
翌日は凍えるような寒さで、朝から強風に煽られ雪が吹き付けていた。町田達がゴンドラから降りて来た。彼等はスキーの片方を互いに交換すると、盗難を防ぐために距離を置いて雪面に立てた。そして彼等は丸太造りのレストランに入って行った。
「橋本、本当に来てるかな」
と、古淵が言った。彼等は入り口付近から店内を見渡した。
「来てるよ」
と言って、町田が指を差した。その先には明るく手を振る橋本の姿があった。
町田達は食券を買うと橋本の待つ席に向かった。橋本はココアを飲んでいた。
「やあ、思ったより元気そうだね」
と、町田が声を掛けた。
「うん。雪をみたら少し元気になったよ。此処に来る前に下で滑っていたんだ。やっぱりスキーはいいよ」
と、橋本が答えた。
「あんまり心配させるなよ。お前が心臓を悪くするなんて俺には考えられないぜ」
と、矢部が言った。
「本当に心配を掛けてごめん」
と、橋本は謝った。
壁暖房の効いた落ち着いた雰囲気の店内では穏やかに時間が流れていた。彼等はこの店で評判のチキンカレーを食べながらスキー談義に話を弾ませた。
「この天気じゃ、やっぱり山頂ゲレンデは滑走禁止かな」
「でも、滑れない事はないよ。俺なんか、もうロープ破りの常習犯だからな」
「矢部も懲りてないな。三年前に吹雪の中を無理して滑ったら、心配して追い掛けて来たパトロールの親父に捕まって、殴られた上に長々と説教を聞かされたじゃない」
「そう言えばそんな事もあったよな」
矢部は思い出しながら笑った。
「だけど、少しは天気が回復して来たんじゃない」
と、古淵が言った。彼等は窓の外に目を向けた。外は幾分か風が治まり、雪も小降りになって来た。
筍山の山頂は雲の流れが速く、時折切れ間から日差しが覗いていた。彼等がリフトで上がった時には、天気は回復して来たがまだ山頂ゲレンデは滑走禁止のままだった。彼等は開放を催促するようにコースの入り口に張られた進入防止のロープの前に並んだ。そしてリフト小屋の係員が表に出て来てロープを外した。
「だけど、いきなり筍山はきついよ」
先の見えない急斜面を覗き込んで橋本が不安そうに呟いた。
「橋本なら大丈夫だよ。風邪で熱を出した時だって、雪の上に立ったら元気になったじゃない。ガンガン行こうぜ」
と、古淵が言った。
「風邪と心臓が悪いのはちょっと違うんじゃないか」
と、町田が言った。
「そうだよ。それもガンガンなんてちょっと勘弁してよ」
と、橋本は弱気に応えた。
「それもそうだな。こんな所で死なれたら困るからな。じゃあ、上で様子を見てるから先に滑っていいよ」
矢部がそう提案した。
橋本はゆっくりした斜滑降で幾つかのコブを乗り越えるとコースの端で止まった。
「大丈夫かな」
と、町田が言った。
心配そうに彼等が見守る中、橋本は胸を谷に向けて一気に滑り出した。彼等が呆気に取られている内に、橋本の姿は彼等の視界から消えて行った。
「やられたよ」
と、矢部が呟いた。
「何処が病気なんだよ。とても心臓が悪いようには見えないじゃん」
と、古淵が言った。
「でも良かったよ。やっぱり心臓が悪いのは気持ちの問題だったんだよ」
と、町田が言った。
「しかし、あいつは雪の上だと完全に別人だからな」
と、矢部が嘆いた。
彼等は橋本を追って滑り出した。
ゴンドラ降り場から続く緩やかな斜面を由美が軽快に滑っている。その横からウェアだけは上級者の男性が上半身を振り回しながら猛烈な勢いで追い抜いた。しかし彼はスピードに堪え切れなくなり、バランスを崩して転倒した。彼女はそれに構わずスキーを滑らせて行った。
彼女は大斜面の入り口付近で仲間が集まるのを待っていた。先程転倒した男性も一緒だった。彼は転倒の原因を板の所為にして、彼女に能書きを垂れていた。
「この板はもうだめだな」
「それって今シーズン買ったんでしょ」
「でも、安定性が良くないんだよ」
「そうなんだ」
彼女は彼の言葉に余り関心を持っていないようだった。
「俺みたいにスピードを重視する人間には、やっぱり上級者モデルじゃないと合わないんだよな」
「でも、その板もそんなに悪くないと思うけどな」
「確かに悪くはないんだけどね」
と、彼が答えた。
彼女は彼に応えながらゲレンデを見渡していた。
「あっ、洋子達が来た」
と、彼女が声を上げた。
二人の男女が並んで滑って来る。二人は彼等の直前で大袈裟に急停止して雪を跳ね上げた。新雪は軽々と舞い上がり彼等の頭の上から降り注いだ。
「何するんだよ」
彼は雪を払いながら言った。
「悪い。でも、もう転んで雪まみれだったんだろ」
「確かに誰かさんはそうかもね」
と由美が言った。
「板の調子が悪いんだよ」
「昨日はブーツの調子が悪かったみたいだし、色々と悪くて大変ね」
と、洋子が言った。
遅れていた残りの二人も合流し、由美達は相変わらず混雑している大斜面に差し掛かった。由美は先頭を滑って行き、少し降りた所で他の者が追い付くのを待った。
「由美ちゃん、ちょっと速いよ。昨日に増して上手くなったんじゃない」
息を切らしながら一人の男性が言った。
「昨日のコーチが良かったから」
と、彼女が答えた。
「いいな。私も教えて貰いたいな」
と、智美が言った。
「でも、こんなに混み合っていたら上手い下手は関係ないわよ。まともに滑っている人なんて何処にもいないじゃない」
洋子はそう言ってゲレンデを見渡した。ゲレンデの上部を見上げると、トレーンを組んだ四人が人込みを縫うようにウェーデルンで滑って来る。
「あっ、上手い・・」
彼女は声を詰まらせた。
全員の注目がその視線の先に向けられた。由美はその中の一人が町田である事に気が付き声を漏らした。しかしその声は町田に届かなかった。
その一団は降りて来たかと思うと彼等の横を過ぎ、彼等が唖然としている間に下まで降りて行った。
「今の一人がそうなの」
と、洋子が尋ねた。
「そう。最後の一人が私のコーチ」
由美はそう答えた。
ホテルのレストランは何処も混雑していて、町田達も中華レストランの前に並んでいた。彼等は矢部が持参したビデオウォークマンで人目を気にせず自分達の滑りに見入っていた。其処に由美達が現われた。由美は彼等に気付き一人で歩み寄って行った。
「こんばんわ」
と、彼女が声を掛けた。
彼等は不意に声を掛けられ驚いたようだった。そして小さな画面に向けられていた視線を彼女に合わせた。
「何をしてるんですか」
「待ち時間が長いから、昼間撮ったスキーのビデオを見てるんだ」
と、町田が答えた。
「昼間のビデオですか」
彼女は興味を示して覗き込もうとした。
「こんばんわ。先日は由美が色々とご迷惑をお掛けしました」
一人の男がそう言いながら後ろから由美に覆い被さるように抱き付いた。
「ふざけないでよ」
彼女は男の腕を振り切った。
「随分冷たいじゃん」
と、男は不服そうに答えた。
「一緒に来た友達なんです」
彼女が説明しようとした時、ウエイターが矢部の名前を呼び、奥に案内されて行った。
「こんな所でビデオを見るなんて、やっぱり変な連中だね」
と、男が言った。
町田達は丸テーブルの席に座った。
「残念だったね、男連れで」
と、古淵が言った。
「関係ないよ」
と、町田は答えた。
「だけど少しは悔しいんじゃない」
「まあ、少しはね・・」
町田はその言葉の先を噛み殺した。