翌朝、ホテルの前に迎えのバンが停まる。バンには既に何人かのオプショナルツアーの参加者が乗車していた。バンは更に他のホテルを回り、他の参加者を拾いながら郊外の国内線の空港まで向った。
これからコロラド高原にあるアリゾナ州の空港までプロペラ機で向う。人数に比べて狭く思える機内で、ぼくの隣は多少年齢が上に見える女性だった。
このツアーに一人で参加していたのは、ぼくとその女性だけだった。彼女はプロペラ機が苦手のようで、離陸する前から緊張していた。
「私、プロペラ機って初めてで――」
彼女が心配そうに呟いた。
「機体が小さいから心配ですよね。でも、大丈夫ですよ。昨日のナイトフライトなんて、もっと小さいセスナで宙返りをしましたけど、墜落しませんでしたよ」
「えっ! 宙返り?」
「ええ、特別サービスで宙返りをして貰いました」
ぼくたちは、それからずっと下らない話を続けた。話しをしている内に彼女の緊張も解けたようだった。
何事もなく目的地の空港に着陸し、グランドキャニオンを観光する専用バスに乗り換えた。お互いに一人で参加をしていたぼくと彼女は、何の違和感もなく隣同士となった。
彼女は少し東北の訛りのアクセントがある、明るい女性だった。会話は窓から見える景色のことが中心で、お互いに一人で来ている理由には踏み込まなかった。
昼食会場はドライブインのレストランで、ぼくたちは二人で隅の席に座った。料理はセットメニューになっていて、ドリンクはセルフサービスだった。
(落ち着ける場所でよかった)
彼女が二人分のドリンクを運んで来てくれた。
「ねぇ、『なんで一人なんだろう?』って思っているでしょ」
彼女はじっとぼくの目を見た。
「いえ、ぼくも一人なので」
そう答えると彼女は視線を外して俯いた。
「本当は二人で来る予定だったんだ――」
彼女がポツリと言った。
「ぼくは……、ここには代わりに来たんです」
日本での幾つかの出来事を彼女に話し、彼女も恋人との別れを話してくれた。お互いに似たような境遇で、巡り合せのような気もした。
「せっかくだから楽しまないとね」
彼女は笑顔でそう言った。
「そうだね。今日は二人で楽しもう」
ぼくたちは昼食を食べているテーブルの上で両手を上げてハイタッチをした。
昼食後にバスに戻ると他の参加者は一人も戻っていなかった。
「まだ早かったね」
「みんなギリギリまで景色を見るんだと思いますよ」
どちらからでもなく手を握り合い、お互いの顔を見つめる。
「キレイな目をしてますね……」
冗談半分にそう言うと、ふざけたように彼女が目を閉じた。
ぼくは身を乗り出し、彼女に唇に軽くキスをする。重なっていた筈の彼女の唇が開かれた。導かれるように舌を伸ばすと、身体中の神経の中で口元だけが研ぎ澄まされる。
頭の中が真っ白になった。背もたれに彼女の背中を押しつけるように、強く彼女に覆いかぶさる。重なる唇の中で二人の化身が深く絡み合った。
少しケチャップの味がするキスの後、ぼくたちはまるで即席のカップルのようにじゃれ合った。腕を組み、人目を気にせず軽く抱きあう。他の参加者からはラブラブだと冷やかされたりするが気にしない。
(きっとトラベラーズ・ハイだ……)
グランドキャニオン、その深く侵食された渓谷は、何百万年前から何億年前もの姿を晒している。その雄大な景色を見ていると、自分の悩みなど下らないことに思えてしまう。
ぼくたちは甘いひと時を過ごした。ただ、それはここにいない誰かの代わりに過ぎない。
バスはビュースポットを周りながら帰路に着き、アリゾナの空港に着いた。
「楽しかった。あんな景色を見たら、モヤモヤなんて飛んで行っちゃう」
「ほんと、この日のために今までがあったみたいだ」
何気ない言葉の後に少し沈黙があった。
「本当に――」
往路とは違い復路の機内では会話が弾まなかった。理由は何となく分かる。
(つきあいを続けるか、終わりにするか、決めないといけない……)
ロサンゼルスの空港に着き、ホテルに戻る車を待った。ぼくと彼女はホテルの方向が違うので異なる車だったが、出発時間まで待合室で向き合う席に座って待機した。
彼女がコーヒーを持って来ると言って席を立った。
「じゃあ、一緒に取りに行くよ」
「その前に洗面所に行くから、待っていて」
彼女は一人で歩いて行った。
気まずい雰囲気だったが、楽しかった一日を思い出しながら会話は続いた。しかし、お互いに口に出さない言葉があった。今のぼくには決して言えない。
(――ごめん。一緒に過ごしたかった相手は、やっぱりあなたじゃない――)
彼女を送る車が先に来て、握手をして別れた。その別れ際に彼女から二つに折られたメモ用紙を手渡された。どうやらコーヒーを取りに行った際に書いたらしい。
(きっと連絡先が書いてある。それならそれもいいか……)
ぼくは笑顔で彼女を見送ると、そのメモを拡げた。
その内容はぼくが思い込んでいたものとは違った。短いメッセージだったけれど、読んだら頬が濡れてきた。
◆――
本当に今日はありがとう。おかげでやり直しができそう!
でも、できれば、また会いたいって言って欲しかった。
キミの気持ち、辛いのわかるけど、それでも精一杯、生きようよ!
――◆
「なんだ、お見通しじゃないか……」
涙が止まらなかった。
ホテルに戻り、アメリカから送るつもりだった手紙をスーツケースの奥から出した。封筒には初日に買った切手が貼ってある。送ったところで受取人はもういない。
グランドキャニオンで過ごした今日一日のことを思い返した。
何億年も前から続く渓谷の歴史の中の、たった一日の出会いと別れ、短い時間だったけれど、偽りない楽しい時間だった。
偶然なのか必然なのかは分からない。だけど、欠けた者同士で過ごした愛おしくて素晴らしい一日であったことには違いない。
別れ際に貰ったメモのメッセージを読み返し、深く息を吐いた。
手紙を手で潰して小さく丸めた。テーブルの上にある備品のガラスの灰皿に入れ、マッチを擦った。封筒の端に火がつき、ぐちゃぐちゃに捻じれた紙をゆっくりと燃やしていった。やがて、それは灰となって崩れた。
「帰ろう――」
帰りの成田行きの飛行機は空席が目立った。行きの飛行機で隣の席だった女子大生は、帰りも同じ便だった。彼女はぼくを見つけて手を振った。
(帰りも同じ便とは……)
彼女はフライト中に自分の席を離れて、空いていたぼくの隣に腰を下ろした。
「ねぇ、あれからどうでした?」
彼女は気さくに話しかけてきた。
「色々あったよ。凄く濃密だった」
「なに? その色々濃密って――」
「滞在初日にビバリーヒルズに外泊とかね。聞きたい?」
「うんうん。ぜひ!」
彼女の目は興味津々でキラキラしていた。ぼくは滞在中の出来事をおもしろおかしく話しはじめた。帰りの機内には彼女の笑い声が響いていた。
了