第2章:深まる秋の相模路

2.6 箕輪に迫る餓鬼の群れ


 道澄さんはお共の男性と屋敷を少し出た松明の近くに待ち構え、私は屋敷の中の櫓の上に立って弓を引くことになりました。アキと二郎さんも一緒に櫓の上で、二人には四方の見張りを頼みました。

 

 辺りに腐った臭いが漂い出し、低い唸り声が聞こえて来ました。暗闇の中で目を凝らすと、百体近くの武者姿の餓鬼がゆっくり近付いて来ます。今夜の数は今までの倍を超えているようです。部室の動画で見た通り、餓鬼は霊的な存在と言うよりも実体のあるゾンビそのものでした。

 

 私はポケットからスマホを出して電源を入れ、最初に襲い来る餓鬼を動画で撮影しました。

 

「三増峠の戦い後に多くの悪霊や餓鬼が現れて集落を襲っています。これを見たら助けに来て!」

 私はパソコンで見た通りに声を入れ、再びスマホの電源を切ってポケットにしまいました。

 

 悪霊や餓鬼が屋敷に近付いた所で、私は櫓の上から矢をつがえずに餓鬼に向かって弓を放ちました。甲高い弦音が響き、弓を向けた方向の悪霊は泡と消え、餓鬼はその場に倒れて元の死体に戻りました。

 

「コノハ、凄いじゃん!」

「コノハ様、さすがです」

 アキと二郎さんが隣で喜んでいます。

 

 私は餓鬼が屋敷に近付こうとする度に弓を引いて次々に倒しました。

 

 

「あれ? 奥から向かって来るのって夕方に小沢の坂で見掛けた女性じゃない?」

「確かに、あれは同じ女性です」

 アキと二郎さんが指した先には暗闇に浮かび上がる女性の姿がありました。

 

「じゃあ、有鹿姫が悪霊や餓鬼を操っていたの?」

「かも知れません。だとすると、悪霊や餓鬼を引き連れて小沢の城があった方角を目指しているのかと」

 アキが驚いたように訊ねると二郎さんが冷静に答えました。

 

「えっ、有鹿姫? そんなこと考えていなかったよ。アキ、どうしよう」

 

「どうしようって私に聞かれても。もう一緒にやっつけちゃいなよ」

 

「そんな…」

 

 私は悲劇の女性と聞かされたので、彼女まで悪霊や餓鬼と一緒に退魔の弓で祓って良いのか迷いました。

 

 その女性は屋敷に近付くと櫓の上を見上げ、私を睨みました。

 

「あの派手な衣装の女が退魔の弦音を放っているのか。餓鬼は両耳を削いで弦音を聞かないようにしろ。まず櫓の上で弓を引く女を犯して殺せ!」

 女性が悪霊や餓鬼に命令しました。

 

 宙に浮かぶ悪霊が櫓に集まって来ます。そして餓鬼たちは自分の耳を刀で削ぎ落し、その耳を櫓に向かって投げ出しました。私は弓を射りますが、弦音の効き目が餓鬼にはなくなってしまいました。

 多くの血濡れた耳を投げ付けられ、私の制服が真っ赤に染まって行きます。

 

 

「あれ? 本物の血だよ。血の臭いだよ。これって夢じゃないの?」

 腐敗した飛び散った血で私の顔もべったりと濡れ、私は恐怖で震え上がりました。

 

 ふと手を見ると弓が消えていました。私はパニック状態になり、もう一度弓を出そうとしますが焦るばかりで弓を思い浮かべることができません。

 

「コノハ、しっかりして!」

 アキが私に向かって叫びました。

 

「もう退魔の弓はない。恐れることはない。まずは櫓から攻め落とせ!」

 大きな声で女性が言うと一斉に餓鬼の群れが押し寄せて来ます。

 

 集落の男性たちが応戦してくれますが餓鬼の勢いは止まりません。私たち三人は取り囲まれる前に櫓から降りました。力のなくなった私とアキを二郎さんが刀で守ってくれますが、斬っても斬っても立ち上がって来る餓鬼はキリがありません。

 

 武者姿の餓鬼が振った刀が私の腕を掠めました。左腕に細い線ができ、傷が開き、血が滲み出します。私は焼けるような痛みを感じました。

 

『あれ? 何で血が出るの? それに痛い。これって本当に夢なの? 明晰夢ってこんな夢なの? もう嫌だ』

 夢の出来事だと思い込んでいた私は夢ではなく本当にタイムスリップをしたのではないかと思いました。もう限界です。

 

 二郎さんが集団で襲われ、私とアキも囲まれました。

 

 

『もうダメだ』

 と私が思った時、道澄さんが駆け付けて来て、餓鬼を追い払ってくれました。

 

 道澄さんは数珠を持った手で何かの印を切りながら呪文を唱えており、周囲には餓鬼も悪霊も近付けません。

 道澄さんは右腕で私を抱き寄せました。

 

「もう大丈夫です。ここまでよく頑張りましたね」

 彼は私の左腕の傷をなぞるように右手を当てました。すると血が止まり痛みも和らぎました。

 

「ありがとうございます」

 

「これからは一緒に戦いましょう。もう少しあなたの力が必要です。落ち着けばきっと大丈夫です」

 彼は笑顔で私にそう言いました。

 

「そうよ。コノハ、あなたならきっと大丈夫よ」

 アキは笑顔で励ましてくれました。

 

「コノハ様が力を取り戻すまで、私もまだまだ戦えます!」

 二郎さんも必死に刀を振っています。

 

 私は大きく深呼吸しました。

 

『そうだ。気持ち次第なんだ』

 私は弓と破魔矢をイメージしました。すると今度は左手に弓、右手に一本の矢が現れました。

 

「もう大丈夫です」

 私は彼にそう応えました。

 

 私は空に向かって矢を放ちました。それは甲高い弦音と共に空に昇り、天で無数の光の矢に枝分かれして悪霊や餓鬼の上に降り注ぎます。光の矢で射られた悪霊は泡と消え、餓鬼は元の死体に戻りました。

 

「これで勝てるぞ!」

 集落の人たちの歓声が湧きました。

 

 

 悪霊は全て祓われ、餓鬼は全て死体に戻っています。残るは小沢で見掛けた女性だけとなりました。

 道澄さんが有鹿姫と思われる女性の前に歩み出ました。私は彼に任せた方が良いと思い、弓を下ろしました。

 

「あなたが悪霊や餓鬼を操っていたのですね!」

 

「そうさ。負け戦で逃げる最中に収穫後のトウモロコシの茎を武田の軍勢と思って自刃をした北条の連中は、武田以上にこの辺りの集落には恨みがある。それじゃ死ぬに死ねず、浮かばれないからね。だから戦死した者も自刃した者も一緒に無念を晴らすことにしたのさ」

 

「どうしてあなたはこの地を恨むのです」

 

「当然だろう。この辺りは父上が治める土地であったが、滅んだ我らの供養もせず、主人を変え、安穏と暮らしている者どもなど私は許せない。恩を忘れた者たちなど滅んでしまえばよい。私は亡者を使って小沢城を再建し、この地を支配する。今は戦国の世、生者より強い死者の国があっても良いであろう」

 

「あなたの無念は理解します。しかし、生者を苦しめる亡者の国を作るなど、あなたの野心は許されない」

 彼は印を切りながら歩み寄り、呪文を唱え出しました。

 

「止めろ! 私は浄霊などされぬ。されて堪るものか!」

 女性は下半身が蛇の恐ろしい姿になりました。

 

 

「口惜しい、口惜しい。このまま消えたくない」

 道澄さんが更に呪文を続けると半身が蛇となった女性は苦しみ出します。

 

「私はあなたを滅ぼすのではありません。受け入れて魂を清めさせて下さい」

 道澄さんがそう言うと女性は少しだけ穏やかな表情になりました。

 

「仕方がない。この女の霊はここまでか」

 女性の背中から大蛇が抜け出て来ました。そして大きく口を開け、その口から小さな白い蛇が飛び出して私に向かって来ました。

 

「危ない!」

 

 アキが私を庇って蛇との間に割って入り、その白蛇はアキの首に噛み付きました。

 

「アキ様!」

 二郎さんがアキの首に噛み付いている白蛇を剣で切り落としました。二つに斬られた蛇は地面に落ちると灰になって消えて行きます。

 

 噛み付かれたアキは私の目の前で崩れるように倒れて行きました。そして道澄さんが呪文を止めて振り返った瞬間に女性も大蛇も消えていました。

 

「アキ!」

 

「コノハ、無事で良かった」

 アキが静かに目を閉じて行きました。幾ら呼び掛けても目を開けません。

 

 私は何か毒消しの薬のようなものをイメージしようとしましたが、何度やっても何も出て来ませんでした。代わりに道澄さんが私の左腕にしたように傷口に指を当てましたが血は止まってもアキが目を開けることはありませんでした。

 

 

 アキが倒れてから、私は強く念じた物を実在化させるという力を使えなくなっていました。

 日の出を迎え、その場に残った餓鬼の死体を片付けてから私は道澄さんたちとアキの家に戻りました。しかし、家に着いてからもアキは息があるものの目を覚ましません。道澄さんはアキの治療方法がないか調べると言い残し、滞在先の八菅山に向かいました。

 

 道澄さんたちを見送った後、私はスマホを物見櫓のアンテナに向け、撮影した動画をどこに接続されているかも分からない先に向かって送信しました。そして、そのアドレスを私が見た通りに書付に記して蔵で保管して貰いました。

 

 明晰夢だと思っていたのに幾晩寝ても元の世界には戻れません。再び鏡の泉に行ってもダメでした。このため、私は元の世界に戻ることができるまでアキの家でお世話になることになりました。アイも他の家族もとても良くしてくれます。

 

 それから三増の悪霊や餓鬼も、小沢の有鹿姫と思われる女性も、二度と出なくなったそうです。私も何度か様子を見に行きましたが放置されていた死体は全て埋葬されて供養塔も立てられました。田畑が荒れて作物の収穫量は大分少ないようですが、騒動が早く解決したので冬を越せるだけの食糧は確保できる見通しということです。

 

 季節は秋から冬を迎えようとしています。どうやら私は、これからこの世界で生きて行かなければならないようです。

 

 

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