私は難産の末にこの世に生を受けました。

 

 産みの苦しみを母親に与え、自らも呼吸困難で死に掛け緊急的な鉗子分娩によって頭から血を流しながら誕生しました。その記憶は私にはありません。しかし、その誕生の証として頭に深い傷ができました。

 

 病院で治療をしたので生まれた直後よりも傷は小さくなったし、正面から鏡を見ても自分からは傷が見えません。このため幼い頃は頭の傷を特に意識したことがありません。

 

 しかし小学校に入ると「ハゲ」と言われて馬鹿にされるようになりました。長髪であれば目立たないのでしょうが、当時の髪型は刈上げでした。このため後ろからは傷が目に付いたようです。


 高学年になると「ハゲ」は「下人」という呼ばれ方に変わりました。私がみんなから下人と呼ばれているのを先生が知って注意をし、下人は可哀想だからと「ご」を付けて「御家人」と呼ばれたりもしました。

 

 私は早生まれだったので同学年の中では身体が小さい方でしたが気は強かったので、馬鹿にされると怒って何度も喧嘩をしました。誕生の証である頭の傷は成長するに従って心の傷となり、コンプレックスになりました。

 

「後ろから誰かに笑われている」いつもそんな風に思うようになりました。親や妹に何度も八つ当たりしました。今で言う「家庭内暴力」を私が振るっていました。

 

 当時は「いじめ」や「体罰」という用語がなく、子ども同士で馬鹿にしたり、意地悪したり、暴力を振るったり、無視をしたり、先生からはグーやパーで殴られたり、竹刀で叩かれたり、そんなことは日常茶飯事でした。

 

 

 小学校二年の音楽コンクールではクラス全員でのハーモニカ演奏があり、私を含めて数人がハーモニカに先生からセロハンテープを貼られて吹き真似で参加をしました。


 クラスの一人から「ハゲは下手だから吹けない!」と言われて笑われたことを今でも覚えています。

 

 ただ、当時の子どもたちが私を含めて今の子どもたちよりも精神的に強かった訳ではありません。世間から注目されず社会問題として表面化していなかっただけで深く傷付いていました。

 

 中学時代にクラブ活動で8ケ月間も下級生も含めて全員から無視され続けた時には悔しくて悲しくて独りぼっちで自殺すら考えました。
 顧問の先生は気付いてくれない所か、私が無視されて練習をしたくてもできないのに不熱心だと私をレギュラーから外しました。クラブの中に誰も味方はいません。


 それでもクラブ活動が好きだったから続けたかったし、子どもなりのプライドがあって家族や担任の先生などに相談することはできませんでした。

 

 どんな時代でも偏見や差別、そして暴力があります。私は自分の誕生の証に賭けてこれから未来を紡ぐ世代が激しい時代を生き抜けるように応援します。

 

【戻る】