「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日
1987年に出版され、280万部の大ベストセラーとなった俵万智さんの第一歌集「サラダ記念日」の表題となった短歌です。とても自然で情感的な歌です。
「サラダ記念日」の短歌はそれまでに国語の授業で習った短歌(文語短歌)とは違い、話し言葉を取り入れた口語短歌と呼ばれるものでした。
当時、俵万智さんは神奈川県立橋本高校の教諭で、「近所の学校に凄い先生がいるんだ」と感心したものです。
私も小学校高学年の頃に、短歌や俳句、詩を作って、よく担任の先生に見せていました。あの頃は植物や鳥や動物の気持ちが理解できるような感覚があり、ぎこちないながらも自分の言葉で自然な文章が書けました。
しかし、中学に入ると物の見方が変わり、小学生時代のような自然で優しい文章は書けなくなりました。中学生の頃は反抗期の真っ只中で、学校生活のウサを晴らすように家庭では荒れていました。
学校で嫌なことがあると、家に帰ってから妹や母親に当りました。その頃は社会全体として「イジメ」が問題だという認識が不足していたように思います。私自身はイジメたりイジメられたりもしましたが、当時はどちらの立場にしても仕方がないことだと思っていました。
中学1年の時、一人のクラスメイトが男女を問わずクラスの皆から無視された時期がありました。私は特別に無視をしている訳ではありませんでしたが、自分から話し掛けたりはしていませんでした。唯一一人だけ友達がいました。
或る時、本人とその友達が担任の先生から用を頼まれて教室から出て行きました。担任の先生は、「無視はいけない。どうして仲良くできないのか」と泣きながら無視を止めるように言いました。
当時の私には先生が泣いてまで訴える理由が分かりませんでした。
「おれも皆にからかわれるけど、それはいいんですか?」と私が言いました。
「お前はいいんだよ!」とクラスメイトの誰かに叱られました。
結局、無理には仲良くしないまでも、無視するのは止めることを先生に皆で約束しました。
また、中学の3年間を通して男子全体で特定の女子を「エンガチョ」と言って差別したりしていました。そんな中学時代に、私はクラブ活動の中で2年から3年に掛けて男子部員全員から完全に無視をされていました。
私が入っていたクラブは伝統的に強く、当時は全国にも名が知れていました。一つ上の先輩の代では市の大会でベスト8を全て独占する強さでした。
夏の大会が終わって3年生がクラブ活動に出なくなり、秋になって新しい部長を決めました。その新しい部長はクラブの中で一番強く、当時の私とライバル関係にありました。
ただ、彼が部長になったことには全く異議がありませんでした。
彼は全国優勝までした家族の影響で小学生の頃から練習をしていたので、私が1年の頃には全く太刀打ちできませんでした。私は家に帰ってから毎日のように一人でサーブや壁打ちの練習をしました。
それから段々と力を付け、2年になると私は彼と良い勝負ができるようになっていました。
或る日、クラブのミーティングに参加すると皆が私のことを避け始めました。最初はふざけていると思って追い掛けましたが、幾ら追い掛けても皆が逃げ回り、何も理由を話さないので私は怒って家に帰りました。
次の日、クラブに出ると誰からも相手にされません。準備でも練習でも存在を否定するように皆が私を避けて行きます。話し掛けても誰も何も応えません。
顧問の先生が来て、ようやくメニューに沿った練習にだけ参加ができました。しかし、それでも誰も口を利いてくれません。練習後の片付けも一緒にしてくれませんでした。
その次の日も次の日も同じでした。
顧問の先生が居る時以外は全く練習に参加させて貰えません。同じ学年の者だけでなく、後輩も全く同じ態度です。それに私と一番仲が良かった友達さえ全く話しをしてくれません。
朝練も夕練も休日の練習でも試合でも同じです。クラブの中で私の居場所はありませんでした。
誰の命令かは直ぐに分かりました。部長になった彼が私をクラブから追い出そうとしているのは明らかでした。
しかし私は誰にも相談せず、かと言ってクラブも辞めませんでした。悔しくて毎日のように家に帰ってから泣いていました。両親にも打ち明けず、ただ単に家では荒れていました。
顧問の先生から「熱心じゃないな」と言われたりもして、「どうして分かってくれないのか」と恨んだりもしました。
クラブを辞めれば良かったのかも知れませんが、「無視をされたから辞めたい」など当時の私には絶対に言えない言葉でした。
それでは仲間外れにされて逃げ出す弱虫だと自分で認めることになってしまいます。どんなに辛くても弱虫にはなりたくなかったです。こんな日々が続くのなら死んだ方がマシだと真剣に思った時もありました。
1年の時に担任の先生が泣きながら「無視はいけない」と言った理由が身に染みて理解できました。
練習したくてもできなくて、全く誰にも相手にされない。女子部員や顧問の先生も何となく気付いている筈なのに誰も助けてくれない。そんな苦しくて悔しい日々が翌年の5、6月まで続きました。
私は中学3年になってから行われた市民選手権という最初の大きな大会で直ぐに負けてしまいました。ロクに練習をしていないのだから勝てる訳がありません。
一人で寂しくお昼を食べていると部長の彼が笑いながら声を掛けて来ました。そして隣でお昼を食べ出しました。きっと私が惨敗をして気が済んだのでしょう。
すると他の者も寄って来て、それまでがウソのように親しく話し掛けて来ます。
丁度その時に、私と一番仲が良かった友達がまだ勝ち残っていて離れた場所で女子部員とはしゃいでいました。
その様子を見ていた部長の彼は指を差しました。
「あいつ、女子とイチャイチャして調子に乗ってるよな。これから無視だな!」
と皆に言いました。皆は頷いていました。
その時のことを今でもはっきり覚えています。自分が無視から解放されて良かったという安堵感は全くなく、吐き気がするような嫌な感じでした。
それから友達だった彼は私の代わりに夏の大会が終わるまで皆から無視をされ続けました。
私は正直どうでも良かったのですが、私の代わりに無視をされ始めた以前の友達を特に助けたりはしませんでした。友達だっただけに自分を裏切ったことを許せませんでした。
他の連中とは特に親しくも仲違いもせず、適度な距離を取って接していました。
当然、その夏の大会の成績は部長の彼以外は個人戦も団体戦も全くダメでした。
そんなことがあってから私は人付き合いを余り深くしなくなりました。
それから年月が過ぎて数年前に中学の同窓会があり、その部長だった彼と顧問の先生が宴会場に来ていました。
思い出す度に腹が立つ相手ですが、同窓会で昔の恨みを晴らしても仕方がないので軽く会釈だけしました。
私にとっての「サラダ記念日」はよく覚えていないです。ただ、嫌な思い出や悲しい思い出は記念日にするまでもなく忘れることができません。